存在の耐えられない軽さ | TERRA EXTRANJERA

存在の耐えられない軽さ

        悪性の風邪を引きずりながら、セーヌ川周辺を散歩しているときの事。


      ノートル・ダムから鳴る鐘の音が耳を突き刺し、微熱を患う体内に鳴り響いた。


 グウォ-ン、グウォ-ン、グウォ-ン、グウォ-ン、グウォ-ン、グウォ-ン、グウォ-ン、グウォ-ン・・・

 

                 


         今日、仏蘭西はFerie(祝日)。何の日かは調べてないから分からない。


                  単調な低音の音色は、気分を重くさせる。


             鐘の音が空間を、又は僕の身体を支配しているのが分かる。


      だが、その時の僕にはそんな事どうでもよかった。とにかくこの鐘の音が耳障りだ。


             僕は疲れた身体をセーヌ川沿いの石垣に腰掛けた。


                          目が眩む・・・


       この鐘は僕に呪いでもかけているのか?そんなくだらない事を考え始める。


    そうしている内に、今度は単調な低音の鐘に混ざって高音の軽い鐘の音が鳴り始めた。


                  


クヮァ-ン、、グウォ-ン、クヮァ-ン、、グウォ-ン、クヮァ-ン、、グウォ-ン、クヮァ-ン、、グウォ-ン・・・


    さっきまで聴こえていた重い音に、軽い音が混ざる事によって異質のものに聴こえ出した。


       しばらく鐘が繰り出すハーモニーに耳を傾けながら、或る想いを回想する。


              それは昔、或る友人が僕に、こう呟いた事から始まった。


「これからのArtは表面が軽くなければならない。誰が作者の苦悩に満ちた作品を観ようと思うだろうか?」


            この言葉は、数年経った今でも僕の心に引っかかっている。 


                     表面は軽く。内面は重く。


          無論、物質的な「軽さ=重さ」の事をココでは言っているのではない。


確かに近年のArtがその様な傾向なのは頷ける。またArtに限らず全ての現象に当てはまるかもしれない。


            その頃から僕にとって軽さとは?重さとは?の探求が始まった・・・



  そこで僕は映画から入った。フィリップ・カウフマン監督作品『存在の耐えられない軽さ 』である。


        タイトルを見れば分かるとおり、凄く短絡的かもしれない。だが気になる・・・


          だが、正直言って単なるロマンスな映画は僕にとっては退屈だった。


   しかも、その頃の僕は「プラハの春」と言う言葉ぐらいしか知識が無く、歴史背景が掴めなかった。


               なので、チェコの歴史を知るには為になったが。


    そして、テレザ役のジュリエット・ビノッシュの演技と美貌以外は、殆ど覚えていない。


            アカデミックな映画作りが、何かやたらと鼻に衝いた。


                     それから数年後の今年。


           今更ではあるが、『存在の耐えられない軽さ』の文庫を手にした。


                   ここ数日、この本の世界に浸っていた。


       原作の持つ文章は、映画を超えたイマジネーションの世界に僕を連れていった。


        


この本は単なる恋愛小説ではなく、哲学的な考察と心理学的な鋭い人間描写が読んでいて楽しめた。

        読み終えて思ったことは、まず映画の方は駄作だと言う事が分かった。


          全然、ミラン・クンデラの世界を表現仕切れていないと思うのだ。

                

             そこで気になた文章の一部を下記に抜粋してみたい。


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                        「軽さ=重さ」

 

         この問題を提出したのは西暦前6世紀のパルメニデースである。


                   

                (紀元前500年ごろ?-ギリシアの哲学者)


              彼は全世界が二つの極に二分されていると見た。


              光-闇、細さ-粗さ、暖かさ-寒さ、存在-非存在。


   この対立の一方の極はパルメニデーズにとっては肯定的であり(光、細さ、暖かさ、存在)


        一方は否定的なものである。このように肯定と否定の極へ分ける事は


         我々には子供っぽいぐらいに安易に見える。ただ1つの場合を除いて。


               軽さと重さとでは、どちらが肯定的なのであろうか?


          パルニメデーズは答えた。軽さが肯定的で、重さが否定的だと。


       正しいかどうか?それが問題だ。確かな事はただ1つ、重さ-軽さという対立は


       あらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的だということである。


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          もし、人生への最初の稽古が、すでに人生そのものであるなら。


                人生は何の価値があるのであろうか?


    そんな訳で人生はスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確な言葉ではない。


          なぜならばスケッチはいつも絵の準備の為の線描きであるのに


  我々の人生であるスケッチは絵のない線描き、すなわち、無のためのスケッチであるからである。


      一度きりの人生。しかし・・・ Einmal ist Keinmal (アインマル イスト カインマル)


                      「一度は数のうちに入らない」          ドイツの諺より。


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                  話はだいぶ反れ、長文になってしまった。


他にも挙げたい節があるが、この様にミラン・クンデラの文章には読み手へのメッセージが書かれている。


      鐘の音も鳴り止む頃。鳴り始めた当初より、身体が軽やかになったように思えた。


          あんなに嫌悪を感じた鐘の音が、清々しく聖なるものに聴こえてくる。


             やはり何事も、軽さと重さの調和が大切なのだと思うのだ。


 そして、あの鐘は誰が為に鳴る鐘なのかは判らないが、僕にとって「軽さ=重さ」の探求は続くだろう。

                                                 

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