TERRA EXTRANJERA -10ページ目

悪い奴らはよく眠る・・・

 車が向かった先はシャルル・ドゴール・エトワールだった。この辺はパリの右岸では商業地区で高級ブティックが密集している場所なのだ。そして僕達はルイ・ヴィトンのショップの前に集まり打ち合わせをし、一人1000ユーロ渡された。はこの時の気持ちを正直に言うと、このまま1000ユーロ持ち逃げしたい気分だった。しかしケンちゃんの指示どうりの品物を買いに出かけたのだ。(今じゃもう指示された品物の名前さえ覚えていない。)さすがに高級ブティックと言うだけあって、入り口の門構えが立派で、入るのにも何故か戸惑った記憶があり、僕は驚愕と共に嫌悪を感じていた。「ボンジュール、ムッシュ-」と言いながらドアマンが開けてくれた入り口を、僕は「メルシー」と返事しながらも、内面では早く仕事を終わらしたいと思いながら、重い足取りで靴の踵を引きずりながら入っていったのだ。

 

店内はゴージャスなデコレーションとルイ・ヴィトンの品物で埋め尽くされてあった。そこにいる客層は、フランスの上流階級らしい姿をしたムッシュー・マダムやツーリストらしき人々もおり、品定めをしていた。

取り合えず早く目的の品物を探し出して、早くこの場所を出ようと思いながら探ていた。そう言えば僕と一緒に来たカップルは、ブランド物に詳しいらしく、楽しそうに店内を見回っていた。それ以来行方分からず。


そうしている内に誰かフランス語で僕に声を掛けたのである。僕は振り返ると、そこには金髪で良い香りを放つ綺麗なマドモワゼルが立っていた。「何かお探しですか?ムッシュー」と答えながらも、なんか不快な顔をしていた。僕は戸惑いながら「ウィ」と答え、ケンちゃんに依頼された品物の名前を日本語のアクサントで答えたのだ。              *僕はこの頃、フランス語を殆ど喋れず、簡単な単語しか知らなかった。

 

それから「あなた日本人?」その様な事をマドモワゼルは聞いてきた。僕は「ウィ」と答えた。マドモワゼルは「OK!!」と答えながらもウンザリといった調子だ。そしてやる気の無い足取りで案内してくれた。(パリはサービスが悪いと言うがコレはそうなのか?それとも東洋人がこんな高級ブティックに来るのが不愉快なのか?)そんな事を考えながら、品物の置いてあるフロアーに向かったのだ。

 

「あなたが探してるのはコレね?」マドモアゼルは品物を指しながら、相変わらずやる気のなさそうな態度で接客していた。僕はその品物が健ちゃんに頼まれて、カタログに載っていた値段や同じ形と色か確認した。そして同じ品物だったので「コレをお願いします。」と片言のフランス語で答えた。マドモアゼルはパスポート出すように言ってきたので素直にパスポートを渡した。そして確認が済んでからキャシュコナーでお金を払い、何とか目的の品物を買う事が出来たのだ。しかし僕は忘れない。現金を渡す時に、マドモアゼルが受け取りながらも見せた軽蔑の視線を、あれは何を意味するのか?あの頃は解からなかった…

 

そして急ぐように店を出てた。そして大急ぎでゴロワーズを吸いながらリラックスし、胸糞悪い思いをかき消しながら、ルイ・ヴィトンの買い物バックを片手に、ケンちゃんが待っている場所へ向かったのだ。

彼は車越しに体を傾けながら、空ろな表情で空を見上げて待っていた。僕は彼にこの忌まわしい買い物バックをすぐさま無言に渡したのだ。そして早く報酬の10%である100ユーロを渡してくれるように言った。

彼は「まだ時間があったら、もう一軒行かない?」と言って来たが、僕は断り早くこの場を立ち去りたかったのだ。そして彼は渋々と僕に100ユーロ渡し、「また時間があったら手伝ってね!」と言ってきた。

 

それから僕はユースホステルに帰り、今日の忌まわしい出来事を忘れる為に、安物の葡萄酒を飲んでいたら、あの大阪弁の女性がやって来た。彼女は「どうやった?うまくいった?儲けたやろ?またケンちゃんを手伝ってやってな~」と言ってきたのだ。僕は聞き耳も貸さずに、安物の葡萄酒を淡々と飲んでいた。


そしてその日の夜、ユースに泊まっている顔見知りのバックパッカーと共に飲みながら話していると、ケンちゃんと大阪弁の女性の話をしてきたのだ。彼曰く「あの大阪弁の女性は実はケンちゃんが好きなので、あのようにユースにいる日本人を、買い付けバイトにスカウトしているんだ。」僕はその事について、前から何となく解かっていたが、どうでもよい事だった。肝心なのは幾ら金に困っているからって、自分の魂を売ったことだった。読者の方には大げさに思えるかもしれないが、何故かその時の僕は、重大な過ちを犯したような気分だったのだ。しかし金の為に自らを平気で売る狡賢さも、僕の心の奥には眠っていた。人間の儚さを感じながら、安物の葡萄酒の働きもあり嘔吐を誘うぐらい酔いつぶれたのだ。

 

そう言う訳で昨日のタイトルに書いた、ブランド買い付けバイトの真実を書きたいと思う。その真実とは二年前に何かのきっかけで友人から紹介された。ルイ・ヴィトンで働いている日本人女性から聞いた話なのだが、それは『中国や日本、その他アジアの地域で暴力団やマフィアの資金源でもある、麻薬や売春にその他汚れたお金をマネーロンダリング(資金洗浄)する為に、この様に高級ブランド品を暴力団やマフィアは買い付けて日本に輸送し、それを日本のブランド信仰する人々が買うと言う構図が出来ているらしい…』

マネーロンダリングとは何か?知りたい人はhttp://www.web-sanin.co.jp/gov/boutsui/mini25.htm を参照。

 

そして今になって、ルイ・ヴィトンのマドモアゼルが軽蔑したような目で見たのかが、解かったような気がするのだ。彼女はひょっとしたらこの事実を知っていたのかもしれない・・・

それから僕はブランド物を好きな方に、どうこう言うつもりは無い。ただ現実にこのようなマネーロンダリングの為に、買われたブランド品が日本または中国その他の国で売られていると言う事を伝えたかったのだ。

だいぶ文章が長くなりましたがココまで読んでくれた方、あなたにMelciをあげたい !!        Monde

ブランド買い付バイトの真実

 パリには日本書籍を扱うお店でジュンク堂やBock offが営業しています。そしてそこには掲示板が設置してあります。(そう言えばジュンク堂は掲示板を撤去したのかな?)そこには帰国売りや求人募集そして語学交換などの張り紙があり、パリ在住の人々にとって情報交換の場所なのです。そしてその張り紙の中に、ブランド買い付け募集と言う求人を見ます。フランス在住の方は良く見かけると思うのですが、実はこのバイトには闇の部分が隠されているのです。今日はこの事について、どうしても読者に伝えたいと思うのです。

 

なんか冒頭の文章が三流ジャーナリストのように書いてしまいましたが(笑)気を取り直して!!

実は5年前に、このバイトをした事がありました。それは僕がバックパッカーでヨーロッパを旅していた時の事です。僕が泊まっていたユースホステルの玄関前に、毎朝日本人の男性がウロウロしていました。僕が嫌いなタイプのスノッブな姿をしていた。年は二十代後半と言った所だろう。

 

ある日、同じユースに泊まっていた顔見知りの日本人の女性が、僕に話しかけてきました。その頃のユースは1月中盤で、何故か日本人のバックパーカーが沢山集まっていたのだ。何故かと言うとパリはバックパッカーの中継地点だからかもしれない。そしてその女性は大阪弁でこんな事を言ってきたのです。

 

女性 「なあ~良いバイトがあるんやけどやらへん?」

M 「なに!バイト?何のバイトなの?」


その頃の僕は2ヶ月のヨーロッパ長期旅行をしている最中で、旅も後半に差し掛かっていた。そしてスペインで3人組の強盗に合い、カメラや荷物全てを奪われたのだ。幸いパスポートとキャッシュカードは隠しポケットに入れていたので助かったが、かなり身体的に精神的に疲れていた。そして旅の資金も底を突き掛けていたのだ。なのであの時はどうしても、目先の金に眩んでしまったのだった。

*ちなみにMはMondeのイニシャル。

 

女性 「ブランド買い付けのバイト何やけど、ええお金になるで!!実は今な人を探してるねん。どないなん?」

M 「お金って幾らもらえるの?しかもブランド買い付けって何の品物を買えばいいの?」

女性 「あんたルイ・ヴィトングッチシャネル。それからプラダ知ってるでしょ?あれを買ってもらえれば良いねん。給料はな、買い付けた金額の10%やで。だから沢山買い付けただけ、お金沢山もらえるねん。ええバイトやろ!そこのアンタもやる?3人ぐらい人集めているねん!!な~」

 

勿論、名前は知っているが僕には興味など無かった。しかし金の為だった・・・そして僕の他に同じユースに泊まっている日本人のカップルがこの話に乗り出していた。

 

M 「分かった!その仕事やるよ。だけどこんな格好だし、しかもそんなお店で買い物できるの?」

女性 「かまへん!かまへん!大丈夫やで(笑)ほんなユースの外に立ってる人に伝えてくるわ。あの人がな、この仕事の責任者やねん。ケンちゃんと言ってな、最近業績が悪いねん。だから助けてあげたいやん」


そう言う事で、彼女は外に出て男に話を伝えたらしい。数分後、そのケンちゃんとやらを紹介されたのだ。

 

ケンちゃん 「こんにちは。このバイトを引き受けてくれるって聞いたんだけど、お願いしてもいいですか?」

M 「いいですけど、報酬は皆さん大体どの位貰っているのですか?」

ケンちゃん 「そうだね!多い人で200ユーロ。少ない人で50ユーロ。様は沢山買い付けてくれただけ貰えます。いいですか?じゃあパスポート見せて下さい。」

 

僕達はパスポートを見せた。それにしてもこのケンちゃんとやら、受け付けないタイプだ。

 

ケンちゃん 「OK!! ありがとう。それじゃ説明しておきますが、必ずグッチプラダそしてシャネルルイ・ヴィトンのショップでは、パスポートチェックされるので店員に聞かれたらパスポートを差し出してください。」


その様な感じで、彼とのやり取りは終わったのだ。後はカタログを見せて、買う品物の名前や形などを説明された記憶がある。そして僕ら3人は彼の運転する車に乗り込み、僕は水で薄めすぎたレモン水のような罪悪を感じながら目的地へ向かったのだった・・・

 

疲れてきたので続きはまた明日!!                                  Monde

蚤の市

 最近面白い出来事があったのでBlogに書きたいと思います。それは今週の月曜日の事で、この日は月曜日と言う事もあり、パリ20区にあるPolte de montreuil(ポルト ドゥ モントイュ)のBazar(蚤の市)へ掘り出し物を探しに行った時の事でした。

 

ここの蚤の市は18区のPolte de Clinancourt(ポルト ドゥ クリニアンクール)より庶民的で、ガラクタに近いものが平気で売っている。(何故か僕はガラクタに囲まれると心が安らぐのだ)そして古着など凄く安い値段で買える。根気よく探せば、結構掘り出し物に出会えるかもしれない。

付け加えておくと14区のPolte de Vanves(ポルト ドゥ バンブ)は、アンティ-クが多いい蚤の市で、ここも庶民的で結構面白いものが見つかる確率が高い。僕はここでイギリス製のブルーベルベットのジャケットを10ユーロで購入した記憶がある。しかしここは土、日しかやっていないので僕は滅多にいけないのだが・・・

 

探していたものはTシャツなので1ユーロの場所を漁っていたらアニエス・bのロンTを見つけた。サイズも丁度よく合い、即行で「コレを下さい」とアラブ系の店員に聞いた。そうしたら店員は「6ユーロ」と言ってきたのだ。以前の僕なら「ふざけるな」と店員に食って掛かるところだが、ここは店員に丁寧に説明したのだ。

僕が見つけたのは1ユーロの場所です」そして「だからコレは1ユーロじゃないですか」と、周りの客を見渡しながら答えた。そしたらアラブ系の店員はすぐさま「あっそう、じゃあ1ユーロ」と悪びれた様子も無く答えたのだ。そして商談は成立したのである。

 

パリではこう言う出来事は良くあることなので、この様な状況に遭遇したら取り乱さないことだ。そして出来れば片言でも良いから、フランス語で言った方が事はスムーズに解決すると思うのだ。とにかく「Non」という事である。そしてこの様な場所では、日本人は特にカモにされやすいので旅行者は注意してください。

 

 それにしても前置きが長くなりました(笑)実は冒頭に書いた面白い事とは、上記に書いたことじゃないのです。それはロンTを購入したあとの事でした。何気なくバザールの出し物を眺めていると多少汚れているが、白いキャンパス生地の軍物のリュックサックを見つけたのです。

*解りやすく言えば、裸の大将が背中に背負っていたサックを少し小型にしたサックだと想像してください。

 

僕は店員に聞いてみました。「このサックはいくらですか?」そしたら店員は「これはうちの品物じゃない」と言いました。そして「そこにいる客の持ち物だ」と背の高い男性を指して教えてくれたのです。

その男性はそれに気づいたらしく、僕を見て「このサックが気に入ったのか?」と聞いてきたのです。

なので「そうです」と答えると。彼は突然カバンの中にある持ち物を、スーパーマルシェのビニール袋に全部移して、こう答えました。「10ユーロで売ってあげるよ」と。

突然、いつの間にか商談になったのである。「しかしあなたはサックが無くなるでしょう!!」と僕が答えると、「いいんだよ、このサックを気に入ってくれる人がいたら譲って新しいのを探すよ」と彼は答えたのだ。僕は何故かその時、彼の行動とセリフがカッコ良く思え、僕の頭の中では妄想の8mmカメラのレンズがローアングルで、この状況を写し取りFilmはカタカタと回っていた。そしてCinemaの一場面に遭遇したような気分に思えたのだ。結局、僕は彼に10ユーロを渡して、そのサックを購入したのでした。

 

そして、このサックは今、現在毎日使用しています。そして僕も何時か自分の気に入っている物を欲しがる人がいたら、、「いいんだよ、コレを気に入ってくれる人がいたら譲って新しいのを探すよ」と、彼の様にさりげなく譲ってあげようと思う今日この頃です。

アメリカの友人

 先週から今週に掛けて友人の友達が3人遊びに来てました。

しかし僕は人を案内するのは苦手なのです。何故かと言うとパリに住んでいても、趣味の範囲でしか行動しないから、とても案内なんて苦手なのだ。それと以前Blogにも書いたようにレストランなど殆ど行かないし。

僕に出来る事は精々パリの土地勘と交通手段に趣味の範囲ぐらいだろう・・・

 

第一エッフェル塔も登ったことが無いし。ノートル・ダム大聖堂に入ったのも、つい最近の事なのだ。

(Jen-PaurⅡが亡くなったとき)しかし3人とも初対面だが共通の友達がいるので、話には困らないと思いながらも不安交じりで承諾したのです。それにしてもパリに住んでると「友人の友人がパリに行くから案内お願い!」と言うパターンが多いのは僕だけだろうか?

 

彼ら彼女らはニューヨーク在住で今回が初めてのフランスだと言う事でした。アメリカ人のDと日本人の奥さんのKさん、そしてHさんの3人で会うことに。ポンピド-センター前に21:00に待ち合わせしたので行ってみると無事に出会う事が出来ました。アメリカ人のDは案の定アメリカンスマイルで微笑みかけてきました。

3人ともアート系の人なので、会話は弾みました。しかしDとの会話は英語しか話せないので辛かったです。普段英語なんて使わないから簡単な言葉も思い出すのにタイムラグがあり、伝わってるのかも曖昧でした。しかしアメリカ人にしてはかなりセンスの好い人で共通の話題も沢山あったので安心しました。そして「何処かセンスの好い飲める場所は無いか?」という話になり、いつも行くBarへ行きました。

 

3人ともBarを気に入ってくれたので僕も緊張から解放され、4人で杯を交わしました。そしてニューヨークパリの違いを話し合いました。二国とも自由がスローガンの国ですがFREEDOMLIBERTEを話し合った結果、Kさん曰く「ニューヨーカーは全てが競争社会で他人を蹴落としてでも成り上がる人が多く、常に気を張って生きているので疲れている人々が多いい」と。なんか日本に似ている感じがするのは僕だけか?

そしてニューヨーカーのD曰く「9・11以降、市民の間にはテロの恐怖がまだ意識の深いところにあり、常に何にでも警戒してしまう」とDは麦酒を飲み干しながら言った。僕はDの発言にはとても興味がありました。

 

そう考えるとパリジャンはどうだろうか?僕が思うにフランスは競争社会というより階級社会なのじゃないかと思い、パリの人々を見てみると他人に警戒なんて無縁で(勿論防犯セキュリテ-は別ですが)、様は興味あるか、無いかで実に解りやすいラテン民族の行動様式だと思いながら、気が付いたら4杯目の葡萄酒をシェフに注文していました。 *これはあくまで僕、個人の意見です。

 

笑顔一つでもアメリカとフランスの価値観の違いが感じられます。アメリカでは初対面の相手に警戒を与えないようにスマイルをするが、フランスでは初対面の人にはきっかけが無いとスマイルしないと思います。もし無闇にスマイルしたら「馬鹿にしてる」とか「何か企んでる」と考えるみたいなのです。

日本とはアメリカとフランスの中間ぐらいの価値観なのかな?と葡萄酒を呷りながら思ったものです。

そして3人と楽しい会話が出来たし。そう言えば冒頭は案内の話でしたが、そんな事は月並みなみだし、別に書かなくてもいいかなと思うので、この辺で文章を切り上げよう・・・

 

そう言う訳で彼らは、今週アメリカに無事に帰国しました。Dも「自分の乗っている飛行機がホワイトハウスに突撃する事無く、無事に着いた。」とmailを送ってきました。(やはりD自身テロの恐怖が依存してるな!)と思いつつ、そんなアメリカの友人達との過ごした数日だったのです。

カンヌ映画祭 2005

 映画ファンは待ちに待ったと思いますが、Festival de Cannes 2005がいよいよ始まりましたね。

そして「いま頃、この記事を書くなんて遅いよ!!」と思われる方もいるかもしれませんが(笑)

何故かと言うと、今週はアメリカの友人がパリに遊びに来たので色々町を案内したりしてBlogを書き込む暇が無かったのです。 *この出来事は後日にでもBlogに書きたいと思います。


しかし映画ファンの僕としてはどうしてもこの記事を書かなければ気がすまないのです。

それには理由があります。それは今年の審査委員長がEmir KUSTURICA (エミール・クストリッツァ)だからなのです。皆さん彼の映画を見たことありますか?

旧ユーゴスラビア出身の監督で主な代表作にジプシーのときアンダーグランド黒猫・白猫パパは出張中スーパー8アリゾナドリーム、それと日本は公開したのかな?日本語直訳、人生の奇跡(LA VIE EST UN MIRACLE)などがあり、どの作品も名作ぞろいでお勧めします。

余談ですが僕が思うにフランス人と映画の話をする時は、クストリッツァの映画は外せないと思うのです。


去年の審査委員長はクエンティン・タランティーノでしたから面白い賞の選評でしたが、今年はクストリッツァなので結構、伝統に基づいたな選評になるんじゃないかと僕は思うのですがどうでしょうか皆さん?  

下記にカンヌ映画祭のオフィシャルサイトアドレスとコンペ出品者と全作品を貼り付けたので興味がある方は見てください。


       

http://www.festival-cannes.fr/       左からA・ヴァルダとE・クストリッツァ


A HISTORY OF VIOLENCE réalisé par David CRONENBERG

BASHING (HARCネLEMENT) réalisé par KOBAYASHI Masahiro

BATALLA EN EL CIELO (BATTLE IN HEAVEN) réalisé par Carlos REYGADAS

BROKEN FLOWERS réalisé par Jim JARMUSCH

CACHノ réalisé par Michael HANEKE

DON'T COME KNOCKING réalisé par Wim WENDERS

ELECTION réalisé par Johnnie TO

FREE ZONE réalisé par Amos GITAI

KEUK JANG JEON (CONTE DE CINEMA) réalisé par HONG Sangsoo

KILOMETRE ZERO (KILOMネTRE ZノRO) réalisé par Hiner SALEEM

LAST DAYS réalisé par Gus VAN SANT

LEMMING réalisé par Dominik MOLL

L'ENFANT réalisé par Jean -Pierre And Luc DARDENNE

MANDERLAY réalisé par Lars VON TRIER

PEINDRE OU FAIRE L'AMOUR réalisé par Jean-Marie LARRIEU , Arnaud LARRIEU

QUANDO SEI NATO NON PUOI PIU NASCONDERTI (UNE FOIS QUE TU ES Nノ...) réalisé par Marco Tullio GIORDANA

SHANGHAI DREAMS réalisé par WANG Xiaoshuai

SIN CITY réalisé par Robert RODRIGUEZ , Frank MILLER

THE THREE BURIALS OF MELQUIADES ESTRADA (TROIS ENTERREMENTS) réalisé par Tommy Lee JONES  

THREE TIMES réalisé par HOU Hsiao Hsien

WHERE THE TRUTH LIES réalisé par Atom EGOYAN


AVENGE BUT ONE OF MY TWO EYES (POUR UN SEUL DE MES DEUX YEUX) réalisé par Avi MOGRABI  

C'EST PAS TOUT A FAIT LA VIE DONT J'AVAIS REVE réalisé par Michel PICCOLI  

CHROMOPHOBIA réalisé par Martha FIENNES

CROSSING THE BRIDGE - THE SOUND OF ISTANBUL réalisé par Fatih AKIN  

DAL_KOM_HAN IN-SAENG réalisé par Jee-woon KIM  

DARSHAN - L'ETREINTE réalisé par Jan KOUNEN

JOYEUX NOEL réalisé par Christian CARION

KIRIKOU ET LE FノTICHE ノGARノ réalisé par Michel OCELOT , B駭馘icte GALUP

KISS KISS, BANG BANG réalisé par Shane BLACK

LES ARTISTES DU THEATRE BRULE réalisé par Rithy PANH  

MATCH POINT réalisé par Woody ALLEN

MIDNIGHT MOVIES: FROM THE MARGIN TO THE MAINSTREAM ("FILMS DE MINUIT: DE LA MARGE AU COURANT PRINCIPAL") réalisé par Stuart SAMUELS

OPERETTA TANUKIGOTEN (PRINCESS RACCOON) réalisé par SUZUKI Seijun  

STAR WARS - EPISODE III - REVENGE OF THE SITH (STAR WARS - EPISODE III - LA REVANCHE DES SITH) réalisé par George LUCAS

THE POWER OF NIGHTMARES réalisé par Adam CURTIS  


エミール・クストリッツァの会見での発言より

「今回の審査団は、興行的な出来ではなく人の心に訴えるものを基準として審査します。今回の映画祭も、過去の映画祭に負けない素晴らしいものにしたいと思います。映画は民主主義と同義ではありません。もちろん決定を下すには意見の一致が前提となりますが、多数決主義は採用しません。ここにいる人たちは、尊敬に値する人です。全員が映画の美学に専心してそれぞれの個性を持ち寄れば、心の奥底からわき上がってくるものに意見がまとまるでしょう。」 


それにしても今年のパルムドールは誰の手に? 5月22日が楽しみだ!!         Monde

Blogを書きながら聞いてください!!

 音楽は僕の生活において、とても大切なものである。もし人生に音楽と言うものが存在しなかったら、とても退屈な日々だろう。想像するだけでも恐ろしい・・・

 

 そんな訳で、今日は僕がフランスでいつも聞いているラジオ局を紹介したいと思います。ひょっとしたら知っている人もいるかも知れませんが、FipというFM局です。周波数を105・1に設定すると聞けます。

勿論パリの周波数ですから、日本のラジオでは聞けません。しかしハイテク世代に生きる我らの時代は、海を越えて各国のラジオを聞ける訳ですから、ご安心ください。これからあなたもBlogを書きながらFipを聞けるのです。別にFipの回し者ではございませんので(笑)

 

 このFM局の特徴はシャンソン・フランセーズは勿論、ワールドミュージック・ジャズ・ロック・クラシックなど、多彩なジャンルの優れた音楽を流してくれます。僕はフランスに来てから、殆どCDを買わなくなりました。何故かと言うとFipが流してくれる曲は、僕の好く聴く音楽を流してくれるから・・・

日本では苦労して手に入れたミュージシャンの曲も、このFipではごく普通に流してくれるのです。

そして何よりも、このFipでDJをしている女性のフランス語と声がとても美しく響き渡り、この女性の声と語りだけでも音楽に聞こえてしまうのは僕だけだろうか?

 

もし聞いてみたい方は、下記のアドレスをクリックしてください。

                ↓

 

          

     http://www.radiofrance.fr/chaines/fip/endirect/

 

あなたがFipを聞いて、少しでもフランスを身近に感じてきたら、僕自身嬉しく思います。

                                                 Monde

パリの壁画

 パリの街を散歩しながら歩いていると、いたるところにスプレーやエアーブラシで書かれたTAG(落書き)を見ます。それはよく見ると実は単なる落書きじゃなくてファインアートであり、パリの至る所に書かれているのです。今日はつい最近見たフランスのグラフティ-(ファインアート) について書きたいと思います。

 始めてこの壁画を見たときは、アメリカの黒人文化であるHip-Hop Art(グラフティーアート)の影響かと思ったのだ。それは黒人運動が盛んだった1970年代のニューヨークのサウスブロンクス。それがグラフティーアートのオリジンらしい。そう言えばジャン・ミッシェル・バスキアもグラフティーアート出身なんだ!

だけどフランスはどうなんだろうか?ラスコーの壁画もグラフティーと言えばグラフティーだし・・・

その辺は勉強不足なので、興味ある方は調べてみてください。

 

4月26日から5月8日までSection Urbaineというタイトルの企画展です。マレ地区の近くで、ゲイやレズが戯れるお店を通り過ぎると Espae des Blancs-Manteauxという建物があります。


 僕の好きなアーティストはNemo と Jerome Mesnagerなんですが、この二人の作品も生で見れるし、何よりもアーティスト本人がそこにいるのだからたまりません。僕が初めてNEMOの作品を見たのはカルチェ・ラタンの小さな小道でした。そしてJerome Mesnagerはモスクの近くのBarの壁だったのです。

僕は始めてこの作品を路上で見かけた時思わず二人の作品を写真の撮ったんですが、あとになって彼らの作品だと知ったのです。

 それにしてもフランスのグラフティーはアメリカのグラフティーと比べてセンスが良い!!二つの作品とも、とてもシンプルなんだけど、アートに遊びがあり見てて楽しいし夢想に耽られるのだ。アメリカのスタイルはとてもケバケバしく、色使いが下品でヘビーメタルなモチーフが多いいし、攻撃的なイメージがするのだ。

まあこれは趣味の問題なのだが・・・


下記に彼らの作品をサイトから引用し画像添付しましたので、参考にどうぞ鑑賞してください。

僕も彼らのように夢や遊び心のあるPhotoを撮りたいものです!!     Monde



                                           

             

Nemo              

                                   

Jerome Mesnager

http://www.artdanslaville.com/artdanslaville.html





なんとかなるさ・・・

 昨日は何処まで書いただろうか?そうだ!フランスに旅立つ直前まで書いたんだっけ?

チケットの手配も終わり、友達ともしばしの別れです。いかにも突然、無謀にも渡仏するなど僕がやりそうな事なので、友人達はそんなに驚いた様子をしませんでした(苦笑)

そしてフランスへ出発する前日の数日間は、毎日のように、様々な友人と酒を交わし「フランスで、がんばってこいよ!」と励まされたものです。本当に今でも彼ら彼女らには感謝しています。


 さて、フランスに行くにはいいが、これからパン職人として生活しなければならない。そして休みの日には写真に時間を費やそう。そんな事をフランス行きの飛行機の中で考えながらも、これからフランスで本当にやって行けるのか?とか、フランス人の事だから口約束だったらどうしよう!などの自己欺瞞に悩まされる事もありました。しかし日本のアパートは引き払ったし、もう後戻りは出来ないのでした。

そして離陸して行く飛行機は、雲の中を貫き、眩しい太陽を薄目で見つめながら、今まで住んでいた日本がミニチュアのように小さくなってしまい、時間を逆流してゆくのです・・・


 パン職人の経験は昨日書いたと思いますが、何故出来ないのに、自身があったのか?読者の方は不思議に感じるでしょう。しかし、僕には自身があったのです。何故かと言うと、パンと言う食品を作るそう考えたら、とても僕には出来ないと思いました。しかし、パンと言う彫刻を造ると言う発想だったら、僕にも出来そうな気がしたのです。幸いに昔、石膏彫刻を造った事があったので、そんな思いになった訳なのです。

本職の人には申し訳ないが、これもこの町で生きていくための手段でした。


パンの材料は、小麦粉に水に塩に酵母菌。そして石膏彫刻の材料は石膏に水、塩と酵母菌が無いだけ。

そして工程で考えたら、写真の現像・停止・定着という3段階で物事を考えれば、楽でした。

パンも大まかに言うと、小麦粉を水で混ぜる・捏ねてバケットの形に作る・竈に入れる。そう考えたら、出来る気がしたのです。


 そしてフランスに着き、彼女が住んでいた16区にある屋根裏部屋の引継ぎをしました。この家は、パン屋のパトロンが借りている建物なので、そのまま僕が住む事になりました。鍵も渡され、全てが始まりました。

3日後に、初めてパトロンと会うことになり、とりあえず日本から持ってきた和菓子を手土産に渡て、印象を好く見せようとしたのを覚えています。そして、片言のフランス語で挨拶と自己紹介しました。

パトロンが聞いてきました。「日本では、パン職人だったのか?それとも菓子職人だったのか?」

僕は答えました。「日本では、パンを焼いていました。」それは、思い切った嘘をついてしまったのです。

パトロンは答えました。「じゃあ、今日の午後から働いてくれ」 (おい!!いきなりかよ~)

しかし、後戻りは出来ない。 Que Sera sera ・・・(なんとかなるさ・・・)と思ったものです。

 それからその日の午後、働く事になりました。今、思い返すとその時のことは無我夢中で、やはり直ぐにはパンを焼かしてもらえないのが幸いでした。パン職人たちの技術を凝視しながら、雑用など何でもこなしたのです。言葉は片言で通じないし、相手の言葉も聞き取れない。ポケットにミニフランス語辞典を忍ばし、解らないことはそのままにせず、質問して納得するまで聞きいて理解しました。

そんな日々が続きましたが、不思議とネガティブな気持ちにはならず、毎日が完全燃焼で充実した日々でした。そして言葉が通じない分、行動で僕の気持ちを表現し、それは不思議と職人たちにも伝わったのか、優しく持て成されました。勿論、日本でパン職人は偽の経歴なので、向こうから質問された時には迷わず「これは日本のやり方と違う」と言って質問を回避しました。我ながら今考え直すと、良くそんな事が出来たと思うのです。そんな感じで月日は立ち、気が付いたらパンが作れるようになり、今に至るわけです。

 そうなのだ!僕は昔から、Que Sera sera ・・・で、生きてきたんだ。

何とかならない時は。何とかするしかない。僕は、全てが結果論で物事を片付けてきたのじゃないか?

そんな風に、自分の事を思うのです。ここまで自分の過去を振り返ってみると、読者の方は多分、凄く運のある男だと思われるでしょうが、これが必然なのか偶然なのかは、僕にとってどうでも良いことなのです。

つまり、言いたい事は、振り返るな、振り返るな後ろには道が無い・・・という事なのです。

これは、友人の手紙に書いてあった言葉なのですが、人生とはその通りだと僕は思うのです。

常に前進あるのみ!!

 最後に、昨日のBlogの冒頭に、小さい頃に大人になったらどんな職業になりたいか?と、書きました。

僕の場合を言うと、実はパン屋さんだったのです。それは幼稚園のときに、近所のパン屋さんからいつもパンの良い匂いがしてきて、子供心に「パン屋さんていいな~毎日美味しいパンが食べられて」と、単純な理由でした。子供の頃の夢は、偶然にも叶える事が出来たのに、成人してから見つけ出した職業にたいしての夢や理想は、まだ叶えていませんが。こんな所に皮肉な因果関係が働いているとは!!


        しかし奇跡とは、意外とみんなの目の前に転がっているのかも知れない・・・ 

                                                            monde

パン屋で働いている経緯について・・・

 皆さんに一つ質問します。子供の頃大きくなったらどんな職業に憧れましたか?きっかけは様々だと思いますが、僕にも小さい頃に憧れた職業がありました。だが年月が過ぎるごとに、憧れる職業と言うものは変わるものです・・・

この質問については、最後の方に書きたいと思います。その前に、現在の僕の職業について書きましょう。


 僕は、以前もBlogに書いたように、パリのBoulanger(パン屋)で働いています。具体的に何処のパン屋という事は僕の立場上、Blogには書けません。(誰が見ているか解らないし、自己セキュリティーの為)

もし興味あるという方がいましたら、コメントに書き込んでください。別の方法でお知らせしたいと思います。

 

 何故、パン屋になったのかは複雑な経緯があり、この事を書かなければなりません。今のお店で働く動機は、単純なものでした。それはパリに住みたいという、誰もが考えるきっかけに過ぎません。そして、パリに来るまでパンなど作った事が無く、どの様な工程でパンが作られるのかも知りませんでした。

ちなみに、日本に住んでいた頃は、映像製作会社の写真部でした。(聞こえは良いですが、実はポルノを製作する会社です。)だが、職業カメラマンと言うのは僕には向いていませんでした。

己の写真に没頭出来るように。そして、僕のBlogを最初から読んでくれている方は、解ると思うのですが、

(バックナンバー見るまえに跳べ!! 子供の頃の夢を叶えたいと思い、パリで創作活動に励もうと思った訳なのです。 しかし、その為にはパリで生活する基盤を作らなければならないのです。なのでお金が掛からず、どのような方法でもいいから、パリに住めないものかと、色々な方法を考えたものです。


 2度目のパリ撮影旅行の時に、ちょうどパリに住んでいる、パン職人の女友達と会いました。久しぶりの再開に、酒を交わし、昔の事などを話しました。そして彼女の言葉から、突然、次のような発言が出たのです。「私、実は来月、日本に帰国する事にしたの。」と・・・

そこで僕は、ものの試しに聞きました。「君がお店を辞めた後、パトロンは次のパン職人を探してるの?」

彼女は答えました。「まだ決まってないのじゃないかな?たぶん職人を探すと思うよ。」

(これはチャンスかもしれない、一か八か聞いてみよう)そして彼女に聞いてみました。

「もし、僕がお店で働きたいというのは可能なのかな?」 

彼女「大丈夫じゃないかな?パトロンに聞いてみてあげようか?」と答え、僕の予想を覆すものです。

勿論、お酒のある席なので、彼女には悪いと思いますが、当初この話を当てにはしていませんでした。しかし、事の成り行きは思わぬ方向へ進んでいたのです。


 それから日本に帰国して、彼女にその後、例の話はどうなったのかMailで尋ねてみました。何日かして、答えが来たのです。「パトロンがOKと答えたよ!!3週間後にフランスへ来れる?」と言う内容でした。僕はすぐさま「勿論、3週間後にフランスへ行きます。」と返信しました。それからの約3週間は、これまでの人生にかつて無い、怒涛の日々でした。

東京のアパートは引き払う事や、家具・その他の荷物をどうする?所持金はどう工面しよう?など、問題が山積みされました。しかし、幸いにも友人や理解ある製作会社の上司の助けがあり、その3週間で殆どの問題を片付ける事が出来ました。今、思い直してもMiracle(奇跡)としか言いようがありません。


ここまで長々と書いてしまいましたが、文章が芹沢光治良みたいになったので・・・

つまり眠くなったので続きは明日書きます。

貧しき人々 後編

 目的地のGare St-Lazareヘ着いた。そこから歩いて5分ほどのところにその場所はあったのだ。そこには既に数10人の行列が出来ており、その群れからは鼻を突くような異臭が漂っていた。だが、臭いと思う反面、何故だか生を意識したのだ。しかし、僕は身震いする気持ちを隠しきれなかった。そんな事を感じているうちに、この広場では配給所の係員が、食事の配膳を準備していた。  

 

 そしてMORADはそんな状態の僕にこう答えたのだ。「怖くなったか?嫌なら帰ってもいいぞ」と。僕は「ヤバイ!心を悟られたか?」と思い、平静を装ってこう答えたのだ。「そんな事無いよ。僕はParisの現実を見たいのだ!」と。彼はニヤリと微笑して答えた。「それなら良かろう。そうだこれがParisの現実なのだ。ここに集まっているのは、外国からの出稼ぎ労働者達、いわゆるスミッグだ。そしてクロッシャーアルコリック達なのだ。」そして続けて、あそこを見ろと目配せした。「あそこにいるのはポーランドやチェコ、ルーマニアなどの東欧の出稼ぎ労働者だ。そしてあそこに固まっているのは、俺と同じマグレブ諸国の北アフリカ出身のスミッグだ。そして中国やベトナムにカンボジアなど、アジア第三世界の人々やアフリカのイミグレーション(移民)だ。」僕はその時、一人の東洋人に眼がいったのだ。何故かと言うと何度かメトロで見かけた事がある東洋人であり、かなりビザール(奇妙)なスタイルをしていたから必然と覚えていて、漠然と何故かその東洋人が、実は日本人ではないか?と言う疑問を抱いたのだった。そして辺りを見回したら、この広場にはいつの間にか、100人近く列が出来ていたのだった。  

 

 この様に、配給所にはマクロの世界が確立していることに気づいた。そして、これがコスモポリタン・パリの現実なのかと考えに耽っていた時、配給の準備もすっかり終わり、係員が食事を配給し始めたのだ。並んでいた人々は食事を手にしてご機嫌になった。或る者は仲間と談笑しながら食べている。また或る者は、飢えた犬のようにパンを頬張りスープを飲み干していた。そして、やっとの事で僕達にも食事が配給されたのだ。  


 それは、この様な献立だった。チキンにヒヨコ豆の和え物、野菜スープにパン、それとデザートにチョコムース2個、そしてコカコーラのバニラ味。悪くない献立だと思った。そして何よりも、お替り自由なのだ。これで無料なのか?どうやって物資調達してるのだろう?そんな事を考えながら、まず始めにチキンとヒヨコ豆の和え物を食べてみた。とても美味しかった。イメージを覆す味だ。そして次にパンとスープ。これもごく普通にスーパーで売られている物と同じだ。これじゃ収入源が少ない人でもパリで生活できる訳だ。こんなトリックがパリにはあったのか?と一人で自問しながら食べていると、MORADが「美味しいか?」と聞いてきた。僕は勿論、「美味しい」と答えた。今、考え直すとその味は、人生の味がしたのだった。


  そして周りを見渡し、さっきの東洋人を見つけた。彼もガツガツと食に耽っていた。僕はMORADに聞いてみた。「彼はもしかしたら日本人じゃないか?」と。そうしたらMORADは彼の方に行って話しかけたのだ。そして数分してから戻ってきて、頷いたように「お前の予感は当たったな」と答えた。その時、僕にはMORADがダンテの書いた、『神曲』に出てくる詩人ウェルギリウスに一瞬感じてしまったのだ。そして彼に誘われ、この様な光景を見た事に、やるせなさを感じた。MORADは実は意識して僕をこの様な場所へ案内したのか?彼に聞きはしなかったが、僕は黙々と人生の味を噛み締めた・・・