TERRA EXTRANJERA -11ページ目

貧しき人々 前編

   美食の国フランス、Parisには数え切れないほどレストランが、あらゆる所に店を構えている。そしてミシュランのガイドブックに載っている様な、三ッ星レストランなどには、一流シェフの腕を味わう為に、世界中から美食家と言われる人々が駆けつけてくるのだろう。無論、僕などは三ッ星どころか一つ星レストランすら、行ったことが無いのである。普段から、外食などあまりしないので、日本から自称美食家の友人が来たときは、恥ずかしい話だが、とても案内など出来ないのだ。だが、僕なりに食に対する考えは持っているだ。


   それは、他人が評価した美食の基準というのを信用しないことである。例えば「或る友人があそこのレストランのパスタは旨い。」とか、「ここのレストランは或る雑誌に、お勧めと書いてあった。」などの類である。大体、食の好みなど、そう簡単に一致するはずが無いのだ。ましてや舌の感覚なんて甘い、辛いなどの基本的味覚は別として、曖昧なものである。僕が基準とするのは、感情面である。例えばどんなに粗末な料理でも、仲の良い友と食べ、楽しい会話に、居心地の良い空間があれば、美味しく感じるのだ。お酒も同様、安物のワインやビールでもやはり、先に書いた状況であれば、大抵は美味しく感じるし、ホロ酔い気分になるのだ。あまりこんな事を書くと、単なる偏屈野郎になるのでここら辺で辞めておこう。何故こんな事を書くのか?それは、今日の様な出来事に遭遇したからなのだ。


    パリの空が赤く染まる頃、Pont des Artsでビールを飲みながら涼んでいたら、この橋でよく出会うMORAD(モラド)と言う名のアルジェリア人に出会った。

彼の事について少し紹介しよう。彼は福島県に、ミツコと言う名の日本人を妻にし、ゲンジュウロウと言う名の子供の父親でもある。パスポートも見せてもらった。それは確かだった。片言の日本語を少し知っていて、サムライ・スピリッツを尊敬しており、日本では大学のプロフェッサーをしていたのだが、そこを辞め、今はヨーロッパへ出稼ぎに来ているのだと言う。何故かと言うと日本円は値が下がり、外貨を稼いで日本に送金しているそうだ。何処までこの話を信じていいのやら…疑う気持ちも無い訳ではないが全てを否定するのもどうかと思い、信じる事から全ては始まるのだと思い直したのだった。


そして彼は「今から、飯を食べに行くからお前も行かないか?」と誘われた。当初は躊躇したが、しかも無料で食べれるらしい。その時「まさかあそこじゃないだろうな?」と思考を駆け巡らしたのだ。あそことは、スミッグクロッシャ-アルコリックなどが主に行き、NPOが主催する配給所の事なのだ。そして僕は、その様な人々の群れを、何度か見かけた事があったからそんな事を考えた訳であった。

スミッグとは低所得者の事であり、クロッシャーは乞食の事で、アルコリックはアルコール中毒。


  その事をMORADに尋ねてみたら、案の定、予測は的中したのだ。ここで断るのは簡単だが、僕は変な好奇心の持ち主なので、一度その様な人々と同じものを喰らってみたい衝動に駆られたのだった。なんか、『もの食う人びと』を書いた辺見庸氏になった気分だ。そして考えた挙句、「よし!!僕も一緒に食べに行こう!!」と答えた。そして配給所の場所、Gare St-Lazareへ、僕とMORADはバスで向かったのだ。

聖母の涙

 今日は、フランスの国民祝日であり、Fete du 1er Mai (プルミエ、メイ)と言われる日です。

そして今日は、フランス国民が家族や友人または恋人に、花を渡し合う日。そして、テーマに書いた言葉

にもある、Muguet(ミュゲ)は鈴蘭という意味なのだ。何故、鈴蘭の花を渡すのか?ルームシェアメイトのManuに聞いてみた。フランス人なので意味ぐらいは知ってるだろうと思い、聞いてみたのだが「それは伝統だからさ・・・」 実に簡単な答えだった。彼に聞くのが間違いだったのかもしれない!

少し少女趣味かもしれないが、花言葉で鈴蘭を検索してみたら、このように書いていました。

 

 鈴蘭の花言葉は 幸福が戻ってくる 意識ない美しさ 純愛 繊細な気品 落ち着きある美しさ そしてフランスでは、聖母の涙優男 こうして改めて考えると、フランス国民が何故Muguetを渡し合うのか、解るような気がしたのだ。

 

 それにしてもフランスに来て毎年この日になると、なんだかソワソワしてしまうのは何故だろう?悲しいことに、去年、一昨年は誰にも貰わなかった。反対に鈴蘭をあげた方なので今年こそ、と変な期待をしてしまうのだ。バレンタインデーのチョコを貰う貰わないについては、あまり気にしない方だったが、何故かこの鈴蘭は貰ったら嬉しいだろうと、男ながら勝手に妄想するのであった。

だいたい、日本では花を渡しあう習慣が無いので、その様な妄想に取り付かれるのだろうか?

過去を思い出しても、あまり貰ったためしがない。いや、一度だけ好きな子に貰ったんだ!その時は誕生日のお祝いで、赤い薔薇の花束だった。その時はすごく感動したのを覚えている。あまりに嬉しくて、確か写真まで撮ったんだ!だが、それ以来ずいぶん長い間花を貰ってない・・・

 

 しかし、時間は刻々と刻み込まれ、気が付くと20:15。今年も駄目かと半分諦めていた。貰うのが駄目ならあげる人はいないか?去年Manuに鈴蘭をあげたが興味なさそうな感じだったから、今年は彼にあげるのは止して、ほかに誰か渡したい人がいるか?そんなことを考えだしたのだ。

早速、数少ない友人に電話してみたが、残念ながら連絡が付かない。どうしようもないので、サン・マルタン運河でビールを片手に夢想に耽っていた。そうしたらホロ酔い気分も手伝い、僕の変な妄想は、「Muguetをあげたい男」と言う虚構のCinemaまで作り出したのだった。

 

 それはこんなストーリーだ。目に止まった綺麗な女性に突然、花をあげて名も言わず、逃げ出だす事に喜びを見つける男の話。勿論、女性の方も何がなんだかわからずじまいだし、花を貰って嬉しい反面、奇妙なので複雑な気分にさせるのだ。ある意味これはフラワーテロリストなのである。それで彼は満足するのだ。だがある日、どうしても花を受け取ってくれない女性が現れるのだ。そこで彼は試行錯誤、花を受け取ってくれるように作戦を練る!と、ここまでストーリーを考えたのだ。そして、気狂いじみた事を考えてしまう自分に笑えて来た。

 

 結局、今年も貰えずじまい、おまけに誰にもあげなかった。しょうがない。だが来年こそは!と思いつつも、なんだか今日は変な妄想に取り付かれる日だった。たぶん町中に漂うMuguetの強い香りが、僕をこのような気分にさせるのだろうか?

Les yeux clairs

 まだ19時だと言うのに、空が明るい。今日は本当に天気の良い日だった!

パリはグリ(灰色)の空と、よく言うが、それは本当だと思う。なのでこんなに晴天の日は、太陽の光がありがたく思えるのだ。こんな日は、バンセンヌの森に行き、芝生の上でシエスタ(昼寝)したいものだ。

だが、今日は仕事、明日も仕事。しかも毎日パンを焼くので、火のそばにいるから、体力の消耗が激しいのである。そうだ、近いうちに僕の働いているパン屋のことも記事にしよう・・・

 ParisもいよいよVacance(ヴァカンス)シーズンに突入し、人々はご機嫌だ!! だがその為に、お店の方は客足が減少しているので暇になる。まあ、たまにはいいか!それにしてもパリ・ジャン、パリジェンヌは、この時期になると、民族大移動の如くパリを離れ、各自の保養地へ向かうのだ。 それに反比例して、ツーリストも多くなる時期なので Gare de l′Est (パリ東駅)や Gare du Nord (パリ北駅)そして他の大きな駅は、人々で一杯なのだ。早く、都会のストレスから開放されようとしているのが、見ててよく判る。

 

 久しぶりに、フランス映画らしいフランス映画を鑑賞した。タイトルは『レ・ジュ クレール』監督はジェローム・ボネルと言う若手監督で、今年のジャン・ヴィゴ賞を受賞した映画である。そしてこれからのフランス映画界、注目の若手監督であるのだ。フランス映画ファンは要チェックすべし!

最終回が21:55なので家で、ご飯を食べたり、ゆったりしてからCinemaに行けるところが、フランスの素晴らしいところだ。日本だとレイトショウでも、21:15か、遅くても21:30あたりで終わるのだが・・・

肝心のストーリーを語るのは、どうしようか悩んだが、これから見る人の為にも、ごく簡単にさわりだけでも伝えようと思います。

タイトル未設定

Les yeux clairs                      Realisatiion  Jerome Bonnell

レ・ジュ クレール  日本語直訳  明るい視線         監督  ジェローム・ボネル

 主人公のFannny(ファニー)は高度の鬱病を患う女性であり、その為に入院と退院を繰り返す。その様な様態なので兄の家庭で生活を共にする。たまに近所の老人の家政婦をしながら、ごくわずかな収入を手にするが、何をしてもヘマをするので、とてもまともな職には就けないし、近所の子供にも馬鹿にされる始末。彼女はある日、兄さんの部屋で、お爺さんとお婆さんの写真を見つける。そして今は無き、二人のお墓はドイツにあることを知るのだった。

そんな彼女が、兄の奥さんの浮気現場を目撃する事になる。なので彼女との仲は険悪になり、ある日を境に最悪の状態になる。そこで彼女は家政婦の給料を片手に兄の車を勝手に運転し、そのまま家出をしてしまう。そこから、あても無い旅へ向かうのだが・・・ と、ここまでにしておこう。

 僕もフランス語をすべて理解している訳ではないので、ひょっとしたら少し話しに食い違いが出る可能性があるかもしれない。なにせフランス語で日本語字幕など勿論無しの状態なのであり、あとは己のイマジネーションを頼りに観ているので、そこは大目に見てください。

僕は好きな部類の映画なので、観てて面白かった。フランス映画の王道とも言える映画だと思う。

ここでは書かないが、最後のフィナーレが泣かせる。まあフランス映画お決まりの展開なのだが、僕はこのセンスが好みなので、勝手ながら五つ星のなかから、☆☆☆をあげたい。

フランス映画は観終わってからも、その観た人の内側で想像させる作品が多数あるが、そこに作者と観客のコミュニケーションがあり、イマージュのなかから感動が生まれてくるのだと思うのだ。

フランス人とボーダーシャツの関係

皆さん、ボーダーシャツを常に、愛用して着ている人と言うと、誰を想像しますか?

僕が想像したのは、ジャン・ポール・ゴルチェ、ピカソ、ジーン・セバーグ、梅図かずお・・・ 

 日本人が好むフレンチカジュアルに、必ず定番でSeint‐James(セント・ジェームズ)社のボ-ダ-シャツを好んで着ている人があなたの周りにもいるのではないか?これはいつ頃から、この様にボーダーが持て囃されたのであろうか?たぶん1980年代後半か1990年代初頭?の『オリーブ少女』と言う言葉が出てきた頃じゃないか?と、自分では睨んでいる。そう言う僕も、以前は好んでボーダーシャツを着ていた一人である。日本に住んでいた頃は、色違いで5枚ぐらい、ボーダーシャツを所持していたものだった。コットン100%で生地は丈夫だし、シンプルで飽きないデザイン。おまけにピカソが愛用していた、それが理由なのだ。

 だが、フランスに住んでから気づいたのだが、日本ほど、ボーダーシャツ人口が少ないと思うのだ。それは何故だろう?そんな疑問を、或るフランス人の友人が答えてくれた。「外国人はフランス人のイメージを作りすぎている。ボーダ-シャツに、バケットを抱え、いつもチーズとワインを飲食している。それは一昔前のフランス人のスタイルだ。2005年現在、何処にそんな格好をしたフランス人がいる?Parisでそんな格好していたら、田舎者丸出しだよ。もう、このイメージにはウンザリだよ」と、彼は答えた。そして彼は続けて「だいたい、ボーダーシャツは船乗りの着るものだった。でも今じゃ船乗りさえ着やしないよ。何故かと言うと、今じゃ、港町のお土産物やで、ツーリストが喜んで買うぐらいだ。」と、そして最後に、「ボーダーを好んで着ているのは、外国人かゲイぐらいじゃないか?」と答えた。それは何故かと言うと、ゲイの世界じゃ、ジャン・ポール・ゴルチェを筆頭に、体のラインを強調した、ボーダーを好んで着ているらしい。ボーダーシャツは、いわゆるゲイのシンボリックになったのだ。そう言えば僕も、マレ地区(ゲイ・レズビアンのスポット)でそれらしい集団を、見かけた事がある。

僕もパンを焼く仕事の時は、ボーダーを着て頭にバンダナや、日本の友人から貰った手ぬぐいを頭に巻いて、仕事している。なので職場の同僚のエチオピア人からは、Pirate(ピラト・海賊のこと)と呼ばれたりする。いつもの挨拶が「海賊。元気かい!! 船の調子はいいかい?」とか、「キャプテンによろしく」とかである。僕も「今日は、船の調子が悪くて、キャプテンが機嫌が悪い」とか「今日は、アドリア海からエーゲ海に向かう」と、冗談で交わすのだ。

 

 まあ、この様にフランスではボーダーのイメージは余り良くないらしい。だが、これは一部の人の意見と思った方がよいだろう。別に、フランス国民が答えたアンケートの結果じゃないのだから。それに人がどう考えようとも、好んで着ているのであれば、それはそれで良いじゃないかと、思うのだが・・・

心に沁みた言葉

誰にでも、昔読んだ本や映画のセリフなどが心に沁みる事が無いでしょうか?

僕は昔、この本を読んだとき、心の中に、この言葉が突き刺さった。それは今でもたまに、脳髄に蘇るのだ。


            薔薇の華は 早く摘まなきゃ 凋み 色あせる・・・

        

                                   著者: 遠藤 周作

笑いで見る人種観

 『人間のからだの態度、身振り、そして運動は、単なる機械をおもわせる程度に正比例して笑いを誘うものである。』                                   Henri Bergson (アンリ・ベルクソン)


日本人の或る友人の家に、初めて遊びに行った。そうしたら意外なものがその部屋に置いてあった。それは僕がフランスに住んでいる間に、日本では、いかりや長介の死と偶然にも重なって、結成40周年記念DVD・3枚組BOXが発売されたらしい。それを彼は所持していたのだ。「ワォ-・ドリフ!!」今、思い返すと恥ずかしいが、思わず叫んでしまったのだった。そして子供の頃に見たノスタルジック(懐かしさ)が僕の胸を締め付けた。 そうしたら彼は言い訳をさしてくれと言うように、買った理由を話したのだ。彼曰く、少し照れた様子で「日本に帰国したときに、丁度このDVDが発売していて、懐かしさのあまりに衝動買いしてしまった。」そして「海外に住んでいると、TVは面白くないし、笑いが不足してしまってね」と、いう訳であったのだ。僕はそんな事無いが、確かにその気持ちは解るような気がした。別にこのDVDを持っていたからって彼の人間性を疑わないし、軽蔑したりもしない。ただ普段こんな趣味を持っていたんだという驚きで、思わず叫んだのだ。反対に貸して欲しかった。そうして彼に尋ねたのだ。「このDVD貸してくれない?」そうしたら彼は、共犯者を見つけたかのような笑みをして、「ビアン・スール(勿論)!!」と彼は微笑んで答えたのだった。 
 
 僕には或る魂胆があった。それはこのDVDを僕とルームシェアしているフランス人のManu(マニュ)に見せてあげたいのだ。何故かと言うと、彼は、フランスのコミック(お笑い)好きで、いつも「monde1974!!(僕のこと)このコミック面白いぜ!!見てみろよ」と、フランスのお笑い芸人のDVDを見せてくれるのだった。フランス語がまだ不自由している時、彼が初めてお笑いのDVDを見せてくれた時は、あまり面白く無いと思ったが今は以前ほど解らない訳でもないので結構笑えるようになったのだった。そして、僕の魂胆は彼にドリフターズのDVDを見せて、フランス人の反応を見てみようという訳なのだ。
* 今まで8回ほどBlogに投稿しているのに、今までルームシェアの事を書き忘れていました。Manuは、今年で21歳になるノルマンデー出身の男で、同じ店で働いています。この事は近いうち記事にしようと思います。  
 
 彼に「日本のコメディアンのDVDを借りてきた。」と言ったら案の定喜んだ。そして早速、見てみようという事に。見始めてから最初の頃は、言葉が解らないからどうだろうか?と考えたが、ドリフタ-ズならリアクションの笑いも沢山あるし、解りやすいだろうと思った。彼も物珍しさもあり、マラァン(面白い)と言っていた。だが見始めてから10分辺りで、リモコンの早送りをしだしたのだ。さすがに何を言っているのか解らないのが厭きさせるのだろう。そして、20分も掛からないうちに、一枚目のDVDを見たのだ。いや、見たとは言えないだろう。だが、何度かクスクス笑いを誘う場面もあったのは確かだ。この様にしてフランス人の笑いに対する反応を見守った訳だが、やはり難しいようだ。だが、チャップリンやキートンなどの無声映画などは、どの人種にも共通の笑いを起こすのだ。しかしアメリカのリアクションだけのコミックやアメリカンジョークにはあまり笑いを誘わない。今回はドリフで試したのが間違いだったのだろうか?!そして当の借りてきた僕でさえ、10分見たらお腹一杯だった。今、ドリフターズを思い返すと、良く計算されたシナリオがあり、個性豊かなキャラクターが、あの当時、子供の心を掴んだのだろう。だが、子供の頃のように、純粋な気持ちでは見れなかったことに、何故か寂しさを感じた。


 冒頭に書いた言葉は、フランス人の哲学者Henri Bergson (アンリ・ベルクソン)の言葉である。この人は、笑いのメカニズムや、哲学的考察を書いた『Le rire(笑い)』という書籍を書いている。笑いまでも哲学するフランス人。それ自体が、既に笑えるのだが。僕が思うに、フランス人の笑いにたいする価値観は、皮肉じみて滑稽なほど笑いを誘うのだ。そして一流のユーモアが無ければならない。単純な笑いより、思考を働かせる笑いがフランス人の笑いの哲学なのだろうと思うのである。


         『笑いとは、人種のアイデンティティ-が垣間見れる、生理学である』      Monde

Gauloisesを吸ったことがあるかい? 

 タイトルに書いてある言葉は、ゴロワーズ と言うフランスのタバコの名前である。そしてムッシュ-・かまやつ代表曲のタイトルでもある。僕は日本に住んでいる時から、ゴロワーズ を吸っていた。


思い返せば、8年ぐらい経つだろう。初めてこのタバコを知ったのは、フランスの俳優Jean・Gabin(ジャン・ギャバン)が『ヘッドライト』と言う映画の中で吸っていたからだ。


                    


 このタバコは非常に癖のある匂いが特徴だ。葉巻に近い匂いがして、僕はこの匂いが好きなのだ。だが、 ゴロワーズ を吸い始めてからは、苦難の日々が続いたものだ。


昔、働いていた写真スタジオの先輩から「臭い、臭い !! 」と言われ続け。また、或る友人からは「百草の臭いがする」と言われ、なんか罪でも犯したような気持ちになる事も度々あった。だが、彼ら彼女らに何が解る?匂いにも個人差があるものだ。タバコを吸う人間にも訳があるものだ・・・


あの彷徨となる、安楽感を奪うのか?そして人が何を吸おうと勝手じゃか!!しかし禁煙家には申し訳ないとは思う。なのでタバコが吸わない人の前では、「タバコを吸っていいですか?」と尋ねてから吸う事にした。決して嫌いな人の前では、吸わない様に心がけている。


 最近、フランスも禁煙家が増える傾向にある。ここ1・2年でレストランも全席喫煙と言う店が出てきたし、タバコの料金も値上がり、そしてタバコには必ず《Fumer-Tue》と言う警告表示が付くようになった。
この意味は、《吸うと死ぬ》とダイレクトに書いてあるのだ。さすがに日本では、この様には書かないだろう。だが、フランスでは直接的に警告している。喫煙者の自分にとっても決して気持ちの良いものじゃない。だが僕は辞めない!!これは意地ではないのだ。或る老人の言葉に、共鳴を感じたから・・・


今年、98歳に成るフランス人のアコーディオン奏者の誕生日で、家族がその老人に、こう言ったそうだ。「お父さん、100歳まで生きてくださいね。その為にはタバコは辞めないと」
その時、老人はこう答えたそうだ。「そうだな、100歳になったら、記念としてタバコを辞めよう」と。実に、皮肉の込めたフランス人らしいユーモアで切り替えしたのだった。


この様に、この老人の言った発言は単なるユーモアとして片付けるか、それともそこには特別な意味があるのかを僕は考えた。確かに、タバコを吸うと癌の発生率も高い。しかし、老人が言いたかった事は、多分この様な事だと思った。「タバコを吸おうが、吸わなかろうが、死ぬ時は死ぬのだ」そして、「どのような方法で健康に気を使おうとも、人生とはそんなに生易しいものじゃない」と言いたかったのかもしれない。


 老人なる彼は、様々な人々の死を見て来たわけだ。或る人は事故死し、或る人は、財産が破産し、途方にくれて自殺をした。彼はその様な人生を見てきたのかも知れない。そうじゃないとこんな皮肉じみたユーモアは、言えないだろう!!これは、あくまでも僕の推測だが・・・


    最後に、『ヘッドライト』について、解説と感想を書きたいと思う。1955年度フランス公開作品


                    

 ギャバンが初老男の哀感を滲ませて素晴らしい演技、これはフランス流不倫観である。長距離トラック運転手ジャンは街道すじの宿屋の女中クロチルドに会い恋に落ちる。彼女は、50に手の届く彼のふた廻りも歳下である。ジャンは家庭を持っていたが、ぬくもりのない生活を送っていた。彼女は彼の生き甲斐となったが、妻子を捨て共に新しい道に踏み出す勇気がでない。


クロチルドは常識をわきまえた娘だ。彼の胸中を痛いほど察している。だが涙を零す。彼と幸福になり、愛する人の子供を生みたいと!ジャンも意を決する。しかし、そんな時、失業だ。クロチルドは妊娠していたが、彼に心配かけまいと密かに堕胎医を訪れる。


原題を『とるに足りない人々』という、しかし、心にいつまでも残る人物像が描けた作品であり何処の世界でも起こりうる不倫というテーマを、美しいモノクロームの映像に溶け込ませ、愛を照らすヘッドライトの逆光は、悲哀に満ちた影を作り出す。


恋愛とは、予期せぬ事が起こりうるものだ。そして、愛し合う二人の前には突然幕が下りる。やがてエンドロールが流れ、Finが訪れる。だが、それが人生であり、または再生の始まりなのかもしれない・・・

                                                       

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犬喰らう日本人?

 あなたは今までこんな質問をされた事ありますか?「日本人は犬を食べるのか」と!この質問はフランス人だけじゃなく、ヨーロッパ人の日本人像の一部なのである。初めてこの質問をされた時(なんでこんな事質問するのだろうか?差別発言?もしかしたら日本のマンガか映画でその様なシーンがあったのか?)と思考を廻らしたものであった。結局は「Non!!犬は食べたこと無いよ」と答えるのだが、そして何故その様な事を質問したのか聞き返すと、「両親や友達に聞いたとか、マガジンに書いていた」と。


 確かに僕も昔の日本人は犬を食べたと聞いたことがあることを思い出た。高校時代バイトしていた所で、「赤犬は旨い」や「大阪のドヤ街に赤犬を食べさせる店がある」と聞いたことがあった。疑問に思い、早速ネットで検索してみると、やはり僕の聞いたことは間違いなかた。韓国や中国では食用犬というものを飼育しているらしい。日本も戦時中は食用品として売っていたのである。その人はこんな事も言った。「赤犬を食べると犬がやたら吠え立て、視線にどうも敵意を感る」と。そしてある日の事である。その人は本当に飼い犬に噛まれてしまったのだっ(笑)今、思い返すと、フランス人の質問は、日本人と交友を交わした事が少ない人達や、日本について曖昧なイメージしか持っていないとか、その様な人々である。

 

 そう言えばイタリアでこんな会話をしたことがある。その男は「ジャッキ-チェンは日本人だ」と(笑)「違うよ!!彼はシノア(中国人)だよ」と答えると、「馬鹿を言え!!俺は映画で見たのだ。ジャッキ-・チェンが三菱の車に乗ってカーレースするのを!!」と言い張る。彼は絶対間違ってないと自信満々だ。僕はやっと理由が解かった。何故彼がそう答えるのか!そして訂正してあげた「それはアメリカ映画のキャノンボールだろ!!ジャッキー・チェンは日本人の役をしていたんだ」だが彼はまだ半信半疑と言う顔つきをしていた。


 この様にヨーロッパの人達は、世界の人々は(親日家は別として)、日本やアジアについて、いい加減な知識しかない事を、僕はその時理解したのだった。だが過去には確かに、犬を食べたという事実は認めなければならないだろう。日本の教科書問題も、中国に対しての戦争の罪も、この様な小さな事から誤解を生むのかもしれない。そう言えばテーマは《犬を喰らう日本人?》なので、その事について、僕の思いを書こう。


 西洋人の価値観は犬を家族同然と思い、当然人間が犬を食すなんてカニバリズムに匹敵するぐらいの考えなのだ。まあ、この思考は解らないまでも無いが、犬は食べちゃだめ。じゃあ牛や豚は食べていいのか?と言う矛盾が起こるのでは?そして韓国や中国の食文化を侮辱することに繋がるのでは?勿論、僕自身犬を食べようなんて思わないが、その様な矛盾を考えてしまうのである。宗教でもたしかヒンズー教の教えは「牛は神聖な生き物だから食すのは罪だ!」とかイスラム教は「豚は不浄な生き物だから口に入れるのも汚らわしい」と言う思考と、東洋の犬を食う食文化の違いに差があるだろうか?これはよく西洋人の言う差別じゃなくて区別なのか?≪食≫とは非常に人種間のデリケートな問題に発展するという事に繋がると、このBlogを書きながら改めて思う日であった。

Braに灯が燈るころ・・・

 麦酒を3杯飲んできた。ほろ酔い気分である我輩は、語学をBrasserie(居酒屋)で学んでいる。つまり居酒屋仕込みのフランス語なのである。


 僕はフランス語を本格的に語学学校で学んだことはい。独学で教材はNHKのフランス語会話か、某○教大学の仏文科の授業に潜りこんだりしたものだ。余談だが、たしかアルフレッド・ジャリの「青髭」についての講義だったかな?それとフランス語講座は、今から7・8年前かな?ファビエンヌと言うフランス人の女の子目当てに見ていたものだった。彼女はとてもキュートで、また彼女の喋る日本語が可愛かった。一度、表参道でで見かけたことがあった。その時思わず覚えたてのフランス語で話しかけた。勿論、その当時は僕のフランス語なんて半分も伝わらなかったが・・・今考えればとても恥ずかしい。しかし、あの時は無我夢中でファビエンヌと話した。今、彼女はどうしているのだろう?


 話を戻すが、勿論まだまだ言葉には不自由している。別に語学を商売にしようとしている訳でもないし、或る程度のコミュニカシオンが出来れば良いと思ってる。だいたい今までの人生で勉強と言うものを本格的に打ち込もうとしたことは無く、小・中・高と劣等性で過ごして来たのだから。つまり努力したことが無いので受験戦争など経験したことも無い。そんな無知な僕が片言ではあるがフランス語を喋っている。凄くビザール(奇妙)な気持ちだ。良く考えると人間の適応能力とは凄いものである。環境が必然的に語学の思考回路を転換するのか、それとも必要に迫られるから?そうだ!必要に迫られる環境に自分を置く。自己脅迫観念を利用する。これが僕に合った語学のやりかたなんだろう。多分、語学学校に行っても絶対勉強しないだろうとつくづく思うのだ。


 人には、それぞれ自分に合った勉強法があるのだ。僕の場合はBrasserieのカウンターで麦酒やぶどう酒を飲みながら、ほろ酔い気分で見知らぬ隣の人と気が付いたら喋っている勉強法が合っているのだろう。動詞の活用形とかエクリチュールなどは今の僕に不可能に近いが、そんな事はどうでもいいのだ。まず、言葉は下手でもリアクションや、辞書を片手のコミュニカシオンが大事なんじゃないかと思うのだが、今日も2人組のマドモアゼルと麦酒を交わしながら、フランス語のトラバイェ兼コミュニカシオンしてきました。もしこれを読んだあなたがフランスに来て、興味があったら僕が良く行くBrasserieを紹介しましょう。

                                                         Monde

サウダ-ジを感じる時・・・

 これまで何度か投稿したがどうも文章が硬く真面目ぶっている。今日は文体を変えてみようと思う。ムキィィィィ―――――――ィ、Salut!!


Moiが良く聞く音楽は民族系とか映画音楽・JAZZ・Trip-POP・ROCK(ノイズ・実験音楽を含む)を少々、たまにクラシックを聞くかな。まあ何でもインスピレーションを受けそうな音楽は聴くって事だね。その中でも重要な地位を占めているのは、やはり民俗音楽なんだ・・・

                  

                 


えっ?何故って?そこの読んで下さっている労働者諸君!!そうかい聞きたいなら教えてあげるよ。

何?いいよって?ごめんMoiが怠慢な言い方をしたから?まあそう言わずに聞いてよ!!


それは今から遡ることMoiが高校を卒業し、早く自立したくて親の保護下から抜け出し、ただひたすら東を目指して、灰色の街から旅立とうとしていた。それは桜の咲く頃。


そんなMoiが東に旅立つときに飛行機の機内で聞いた音楽だったんだ。その曲は何語かははピンと来なかったが、とても懐かしい気持ちになる曲で、その女性の声が透きとうるように滑らかで何故か心に響いたなあ~


それから何年か経って東京の生活にも慣れてきた或る日のこと、渋谷のタワーレコードで偶然その音楽が流れたんだ。その時一瞬耳を疑ったが、「間違いない。あの歌声と、このメロディ-はあの曲だ!!」すぐさま店の従業員に、この曲はどこに置いてあるのか聞いた。従業員は直ぐには分からなかったらしく色々手間を取らせ、やっとの事でどこに置いてあるのか教えてくれた。歌手名と置いてあるフロアーを聞いたMoiは、すぐさまそのフロアーへ駆け上り、その歌手名を探した。そして、ようやくの事で探し当てたのだ。

       

                  

   

Madoredeus でタイトルはExisti。その時は感激だったよ。それから数年後、Moiは初めて海外に旅行に行く事に。それもヨーロッパ13カ国を2ヶ月で回る長期旅行だったんだ。そして旅の主要国にはフランス・チェコ・無論ポルトガルも含まれていたよ。


           

                   

上はMADRE DE US の新作アルバムFaluas Do Tejo。テレーザの円熟した歌声が平安を齎します。

結構、マドレデウスで検索するだけでも色々あるもんだな~しかもセンス良いホームページばかり!!

 

そして今こうしてParisに住んでいながらもポルトガルの存在は気になるんだな~。何故、民俗音楽が好きなのかまだ言ってなかったよね?!それは音楽で世界を旅が出来るからさ!!ボーカルのテレーザは真のディ-バなのだ!!!改めて読み直すと今回は文章に無理があるな(笑)       

                                                          Monde